姉妹友好都市(トリノ)

トリノ市

  • 概要
  • 名古屋市との交流
  • イメージギャラリー

トリノ市概要

トリノ市はイタリア北西部のピエモンテ州の州都です。トリノ市は1861年にサルディーニャ王国の主導のもとイタリア統一がなされ、1865年に首都がフィレンツェに移るまで、イタリア王国の最初の首都でした。自動車工業を中心に発展し、現在ではミラノに次ぐイタリア第2の工業都市です。

トリノ市
モーレ・アントネッリアーナ
モーレ・アントネッリアーナ
市長 ステファノ・ロ・ルッソ 2021年(令和3年)10月就任
提携年月日 2005年(平成17年)5月27日
人口 約86万人
面積 約130km2
日本との時差 -8時間(夏時間では-7時間)

提携の経緯

2001年1月に名古屋市立大学芸術工学部とトリノ工科大学の学術交流協定の締結を契機に両市の交流が始まりました。2003年12月に、駐日イタリア大使よりトリノ市に姉妹都市提携の意向があることが伝えられ、2004年5月名古屋市長がトリノ市長を訪問した際、姉妹都市提携について合意し、翌年姉妹都市提携にいたりました。

トリノ市役所
トリノ市役所

地理

トリノ市はスイスとフランスの国境に接するイタリア北西部のピエモンテ州の州都です。ピエモンテ州は北西部をアルプス山脈、南をアペニン山脈に囲まれた山間の地域にあり、トリノはその山に挟まれたポー川流域に広がるポー平原の西部にあります。
トリノ市内の街並み
トリノ市内の街並み

歴史

トリノはイタリア最長のポー川沿いに発達したローマ時代に起源をもつ街です。紀元前1世紀にケルト人の軍事植民地となり、ローマ帝政期にはガラス製造の中心地として栄えました。 1416年からサヴォイア公国の一部となり、1559年にはサヴォイア公国の首都がフランスのシャンベリーからトリノに移されました。その後、サヴォイア公国はサルディーニャ王国と名を変え、1861年、サルディーニャ王国の主導のもと、イタリア統一がなされました。1865年に首都がフィレンツェに移るまで、トリノはイタリア王国の最初の首都でした。
夜景
夜景

教育

イタリアの義務教育は初等教育(小学校)5年、前期中等教育(中学校)3年、後期中等教育(高校)の最初の2年の計10年です。高校は大きく普通高校、技術系高校、職業訓練高校の3つに分類され、5年の終了時には、大学入学資格を兼ねた全国統一卒業試験が行われます。高等教育(大学)については、学士課程3年となっています。

文化・観光

市内にはローマ時代に起源を発する碁盤の目状の整然とした街並みが広がり、バロック様式の美しい建物が至る所に見られます。トリノのシンボルとなっている塔「モーレ・アントネッリアーナ」には、国立映画博物館が入っています。 またトリノは自動車産業が盛んで、フィアットの企業城下町として発展しました。フィアットの創始者により開設された自動車博物館には多数の自動車が展示されています。
モーレ・アントネッリアーナ
モーレ・アントネッリアーナ
自動車博物館
自動車博物館
食に関しては、トリノはピエモンテ産赤ワインの名産地です。また世界で最初にチョコレートが製品化された「チョコレートの発祥地」としても有名で、ジャンドゥィオッティというチョコレートは名物になっています。
トリノ市東部の丘に広がるブドウ畑
トリノ市東部の丘に広がるブドウ畑
ジャンドゥイオッティ
ジャンドゥイオッティ

スポーツ

イタリアはサッカーが盛んで、トリノにも「ユベントス」と「トリノ・フットボール・クラブ」という有名な2つのサッカークラブが本拠を置いています。またトリノでは2006年2月10日より16日間、冬季オリンピックが開催されました。

交通

トリノ市内では、バスと路面電車が主な交通手段ですが、2006年の冬季オリンピックに合わせて地下鉄も開通しました。中心市街地にあたる旧市街地では車の乗り入れを規制しており、歩きやすいまちづくりを進められています。
トリノ市内を走るバス
トリノ市内を走るバス
路面電車
路面電車

トリノ市の姉妹都市 15都市

  • 名古屋(日本)名古屋(日本)
  • カンポ・グランデ(ブラジル)カンポ・グランデ(ブラジル)
  • シャンベリー(フランス)シャンベリー(フランス)
  • ケルン(ドイツ)ケルン(ドイツ)
  • コルドバ(アルゼンチン)コルドバ(アルゼンチン)
  • デトロイト(アメリカ)デトロイト(アメリカ)
  • エッシュ・スール・アルゼット(ルクセンブルグ)エッシュ・スール・アルゼット(ルクセンブルグ)
  • ガザ(パレスチナ)ガザ(パレスチナ)
  • グラスゴー(イギリス)グラスゴー(イギリス)
  • リエージュ(ベルギー)リエージュ(ベルギー)
  • リール(フランス)リール(フランス)
  • ケツァルテナンゴ(グアテマラ)ケツァルテナンゴ(グアテマラ)
  • ロッテルダム(オランダ)ロッテルダム(オランダ)
  • ソルトレークシティ(アメリカ)ソルトレークシティ(アメリカ)
  • 瀋陽(中国)瀋陽(中国)
出典:在ミラノ日本国総領事館 トリノ案内、イタリアの教育制度 Annual Report 2010 TORINO

大学間交流

名古屋市立大学芸術工学部は、トリノ工科大学と2001年1月に学術交流協定を結び、共同研究や研究者・学生の相互派遣などの交流を行っています。トリノ工科大学は、イタリアで最も古い大学の一つで、名古屋市立大学は毎年数名の研究者や学生を派遣しています。

サッカー交流

トリノではサッカーが盛んなことから、名古屋市とトリノ市はサッカーを通じた交流を行っています。2007年には名古屋市立高校サッカー代表団がトリノ市を訪問して、現地のユースチームとの親善試合を行ったほか、2012年にはユベントスの元選手でもあったサッカーコーチをトリノから招聘し、小・中・高校生向けにサッカー教室を開催しました。
サッカー教室の様子(1)
サッカー教室の様子(1)
サッカー教室の様子(2)
サッカー教室の様子(2)

トリノラッピングバス

トリノ市の学生が名古屋の市バスのラッピングデザインをした「トリノラッピングバス」を名古屋で走らせる、デザイン交流プロジェクトを実施しました。トリノにある芸術・応用デザイン大学院(IAAD)の学生が製作したデザイン候補8点の中から、人気投票で1位となったものを、民間企業の協賛により市バスにラッピングし、2014年10月17日から2015年4月18日まで市内を運行しました。
出発式の様子
出発式の様子
市内を走行するトリノラッピングバス
市内を走行するトリノラッピングバス

欧州連合(EU)国際都市地域間協力プログラム(IURC)への参加

EUが主催する、欧州の都市と世界各国の都市がペアを組んで都市諸課題に取り組むIURC(2021~2023年に実施)に、名古屋市がトリノ市とペアとなって参加しました。

名古屋市立高校生の海外派遣事業

名古屋市立高校の高校生20名程度が、毎年春に名古屋市教育委員会の事業でトリノ市へ派遣されています。高校生は滞在中、現地校訪問・交流活動、公所表敬訪問、現地産業にかかる就業体験、訪問国の文化・地理・歴史・経済等に関する視察等を行います。

関連リンク

※写真をクリックすると大きく表示されます。 ※以下の写真は姉妹都市提携15周年を記念し、トリノ市よりいただいた写真を掲載しております。
  • ポー川と一帯の眺望

    ポー川と一帯の眺望
    ポー川と一帯の眺望
    数々の著名な歴史学者は、トリノの位置が当該都市の発展と方向性を決定づける極めて重要な要素であったと提唱しています。ケルト・リグリア系民族がこの地に定住したのは紀元前4世紀にまで遡りますが、トリノを定住先に選んだのは当時の地理的な利点が理由であると考えられています。現在のトリノが存在する肥沃な平原は、先史時代から地域の陸路・水路の主要な合流点であり、また必ず通る場所でもありました。アルプス山脈と丘陵地帯の間を抜ける自然の回廊と多数の水路の合流地点に存在するトリノは、ポー川の美しさを心から楽しむことができる数少ない場所の一つです。
  • モーレ・アントネリアーナと国立映画博物館

    モーレ・アントネリアーナと国立映画博物館
    モーレ・アントネリアーナと国立映画博物館
    1862年、建築家アレッサンドロ・アントネッリがユダヤ人コミュニティより荘厳で新たな信仰の場を建設してほしいとの依頼を受け、モーレ・アントネリアーナの建築が始まりました。同時期にパリにて建築中のエッフェル塔に魅了され、才能に恵まれたアントネッリはヨーロッパで当時随一の高さを誇る煉瓦造りの建造物を設計しました。1889年にようやく、前年に逝去したアントネッリの息子の手により工事が完了し、1905~1908年の3年間でアンニーバレ・リゴッティが内装を仕上げました。しかしながらモーレ・アントネリアーナはシナゴーグとはならず、1878年にトリノ市に寄贈され、同市を象徴する建物となり、博物館を中に備えることで新たな道を歩み始めました。 スイス人建築家フランソワ・コンフィーノにより創意に富んだ設計を施された国立映画博物館は、イタリアで無類かつ世界で最も重要性の高い映画博物館の1つです。同博物館では、マジック・ランタン、ポスター、小道具、衣装に導かれて、胸躍る「第七芸術」(映画)の歴史を巡る旅を体験できます。モーレ内の金属ケーブル吊り超高速パノラマエレベーター(ガラス・ステンレススチール製)で昇る、高さ85mのテラスからの市内360度の眺めは必見です。
  • カステッロ広場

    カステッロ広場
    トリノの歴史の中心はカステッロ広場にあります。同広場は、長きにわたり世の風潮、歴史を動かしピエモンテの栄華をほしいままにした、サヴォイア家の支配の中枢であり続けてきました。トリノを知るなら、まずはこの場所から始めるべきでしょう。同広場の名称は、サヴォイア家の繁栄を称え、その中心に建つマダマ宮殿にちなんで名付けられました。同宮殿は、かつて古代ローマ時代にはデクマーナ門という入り口、中世アカイア公の時代には城(城塞:イタリア語でカステッロ)だったことによります。カステッロ広場は、最も大きな広場の1つであり、トリノがサヴォイア公国の単なる首都であった1500年代後半に公的な祝典や軍事演習を行う場として整備されました。1584年にアスカニオ・ヴィトッツィが設計を始めましたが、1612年、さらに1773年に変更が加えられました。1773年の変更の際には、四角形の広場を取り囲むポルティコが引き立てている、広場のファサードの統一感を補完するために、周囲の建物が一階層高くなりました。その連なりが途切れているのは、ガリバルディ通り(歩道)、ローマ通り(一部歩道)、ポー通り、斜めに通るピエトロ・ミッカ通りといった、一定の間隔にあるトリノの主要道への入り口のみです。
  • 王宮(パラッツォ・レアーレ)

    王宮(パラッツォ・レアーレ)
    同名を冠した小さく美しい広場を前に備える王宮は、19世紀にペラジオ・ペラジにより設計された柵の後方に聳え立っており、その柵にはジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィスカルディの作品であるカストルとポルックスの彫像があしらわれています。かつては司教の邸宅であり、後に公爵の宮殿となりましたが、カルロ・エマヌエーレ二世の統治下の1584年、「新たな大宮殿」として生まれ変わりました。1865年まで同王宮はサヴォイア家の公邸でした。マダム・ロワイヤル(イタリア語ではマダマ・レアーレ)の称号を持つクリスティーヌ・マリー・ド・フランスの希望により増改築された王宮は、数世紀をかけて充実させたフィリッポ・ユヴァッラ、ベネデット・アルフィエーリ、クラウディオ・フランチェスコ・ボーモンの作品の所蔵により、美術品の宝庫となっています。その中でも素晴らしい、フィリッポ・ユヴァッラが手掛けた2本の階段が並列する設計の「ハサミの階段」(幅10.3m)と中国展示室を鑑賞することができます。互いの後を継いだ数々の公爵、王子や王の趣味、流行、逸話や所持品が展示された王宮は、2階と3階が一般に開放されており、1階にある王の部屋とヴィットーリオ・エマヌエーレ二世が暮らしたマダマ・フェリーチタのアパートメントも時折解放されています。入念に元のデザインに修復された、明るく家庭的な雰囲気が漂う王宮キッチンも機会により観覧することができます。
  • 王宮庭園

    王宮庭園
    古い城の中に閉ざされた王宮庭園は、近年元のデザインに戻され、再公開されました。この庭園では彫像、花壇、噴水が全体の調和を醸しており、ヴェルサイユ宮殿の庭園も手掛けた造園家アンドレ・ル・ノートルにより1600年代後半に設計されました。王宮のアパートメントを観覧した後、ほっと一息つくのに最適の場所です。
  • レージョ歌劇場

    レージョ歌劇場
    州立公文書類保管所の新翼にあるロイヤル・ボックスの背景等、元のレージョ劇場のごく一部のみが現在も観覧可能です。1740年に開場したレージョ劇場は当時ヨーロッパで最大の歌劇場でしたが、1936年に火事で焼失しました。1973年にようやく「新」レージョ劇場がカルロ・モリーノとマルチェロ・ザヴェラーニ・ロッシにより設計され、マリア・カラスとジュゼッペ・ディ・ステーファノが演じるジュゼッペ・ヴェルディ作『シチリアの晩鐘』の上演にて新たな幕を開けました。ホワイエは、「音楽の旅」という装飾的な高浮彫りで飾られており、彫刻家ウンベルト・マストロヤンニにより製作された柵(1994年)を抜けて入場する造りになっています。
  • サン・カルロ広場

    サン・カルロ広場
    サン・カルロ広場は昔から「トリノの応接間」として知られています。完全に歩行者専用のこの広場は、コーヒーを飲んだり、ランチや美味しそうなお菓子を食べたりするのに打ってつけの、市内で最も有名な老舗カフェに挑戦するには最適の場所です。かつてこの広場は、王宮の広場と市場で、17世紀前半にカルロ・ディ・カステッラモンテにより設計されました。広場の南端にはサン・カルロ教会とサンタ・クリスティーナ教会という双子の教会があります(サンタ・クリスティーナ教会のファサードはフィリッポ・ユヴァッラにより設計されました)。広場の区画に沿って並んでいるのは、1650年代に建築された優美なバロック式の建物で、幅広のポルティコを備えています。同広場はヨーロッパで最も美しい広場の1つとされています。中央には、1557年のサン・カンタンの戦いから凱旋するエマヌエーレ・フィリベルトの騎馬像(カルロ・マロケッティ作、1838年)が置かれています。トリノ市民は、親しみを込めてこの像を「カヴァル・ド・ブロンズ」(caval’d brons、青銅の馬)と呼んでいます。1832年にイタリアで初めてガス灯を使用したカフェのカフェ・サン・カルロや、カフェ・トリノ、パイッサ、コンフェクショナリーのストラッタ等、トリノで最も知名度の高い、古くからの名所の一部がサン・カルロ広場にあります。
  • エジプト博物館

    エジプト博物館
    エジプト博物館
    1824年に建てられたエジプト博物館は、カイロの考古学博物館に次ぐ世界で二番目の規模のエジプト美術品を所蔵しています。初の展示品は、国王カルロ・フェリーチェがエジプト領事のベルナルド・ドロヴェッティより購入した5,500点の工芸品に、「ベンボの銅板」やサヴォイア家が時間をかけて収集したその他の品々でした。後にエジプト博物館は、1894年から館長を務めるエルネスト・スキャパレリが行った大規模な発掘活動での発見により、カーとメリット夫妻の墓(紀元前1350年頃)など、さらにその所蔵品を充実させました。ここでは多数の貴重な品々を鑑賞することができますが、特にパピルス製の王名表や先王朝時代の亜麻布は必見です。最も有名かつ長寿であったファラオの彫像の傑作とされているテーベのラムセス二世の閃緑岩像と、カルナックで発見されたスフィンクスの砂岩像の2点は、最も重要性の高い美術品であると考えられています。
  • カリニャーノ劇場

    カリニャーノ劇場
    金色と赤色のベルベットが、珠玉のバロック式建築であるこの円形劇場の特徴です。元はカリニャーノ家の王子が所有する家族向けの小劇場で、1700年代前半に娯楽と喜劇の上演を目的としてルイージ・アメデーオの依頼により建築されました。1753年にベネデット・アルフィエーリの手で改築されましたが、その30年後には火事で焼失し、再建が必要となりました。近年復興し、現在の外装は元の劇場に類似したものとなっています。
  • カリニャーノ宮殿

    カリニャーノ宮殿
    カリニャーノ宮殿は1679年にグアリーノ・グアリーニによって建築されました。この建物にはかつてサルデーニャ王国の下院議会(ピエモンテ議会)が入っており、カルロ・アルベルトとその息子で初代イタリア国王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ二世がここで誕生しました。カリニャーノ宮殿は、バロック式のファサードと堂々たる楕円型のホワイエを備えています。内装には、フレスコ画、彫刻、スタッコ製の作品が惜しみなくあしらわれており、1878年に開館し2010年にリニューアルオープンしたイタリア統一国立博物館がその中に入っています。同博物館の30室では、最初の蜂起からイタリア半島の統一に至るまでのサヴォイア家支配の歴史の大きな区切りや国家統一における節目を、重要人物(カヴール伯カミッロ・ベンソ、ジュゼッペ・ガリバルディ、シルヴィオ・ペッリーコ、マッシモ・ダゼリオ、チェーザレ・バルボ、ヴィンチェンツォ・ジョベルティ)の記録や肖像、証言より振り返っています。
  • ヴィットリオ・ヴェネト広場

    ヴィットリオ・ヴェネト広場
    この広場は建築家ジュゼッペ・フリッツィによって1825年に設計されました。三方をポルティコ付きの建物で囲まれ、まるで川向こうにある丘とグラン・マードレ・ディ・ディオ教会を包まんとしているように見えます。同広場は、ポルティコ付きの広場としては世界最大の規模であり、屋外カフェやバールがあります。
  • ヴァレンティーノ城

    ヴァレンティーノ城
    ヴァレンティーノ公園からは、ヴァレンティーノ城を眺めることができます。その起源を16世紀にまで遡るこの城は、1620~1660年カルロ及びアメデオ・ディ・カステッラモンテの手により拡張され、生まれ変わりました。ポー川を臨む二つの塔と大きな急勾配屋根を備え、馬蹄のような形をしたヴァレンティーノ城は、城の改装を依頼した初のマダム・ロワイヤルの出自のフランスにちなんで、アルプス山脈を隔てた反対側の地域の建築様式を取り入れています。カルロ・エマヌエーレ二世の婚礼等、特別な機会や娯楽に使用されるこの城は、川を臨む立派な植物園を備え、そこに数々の植物と植物標本のコレクションを取り揃えています。現在のヴァレンティーノ城には、トリノ工科大学の建築学部が入っています。
  • ヴァレンティーノ公園

    ヴァレンティーノ公園
    ヴァレンティーノ公園の面積は55万m²、ロマンチックなアングロサクソン式庭園の様式で設計されています。この公園は、「ブローニュの森」などのパリの庭園を設計したピエール・バリエ=デシャンによって1800年代半ばに計画されました。イタリア統一100周年記念の折に、2,000本のバラの木が茂り水路と気持ちの良い歩道が交差する、「バラの庭園」と「岩の庭園」の2つが同公園に追加されました。また「中世の村」は、1884年の国際博覧会のために、ポルトガル人建築家アルフレード・ダンドラーデが率いる当時の芸術家と有識者によって建造されました。彼らは、ピエモンテ及びヴァッレ・ダオスタ付近の城、噴水、街路、要塞からインスピレーションを受け、要塞と中世風の庭園を備えた、トリノの街を象徴する偉大なアイコンの1つを作り上げました。公園の後方には、1898年の全国展示会のためにその製作を依頼され、数名の芸術家がアール・ヌーヴォーの像で装飾を施した「12か月の噴水」(カルロ・チェッピ作、1898年)があります。
  • ヴァレンティーノ公園—名古屋市から寄贈された桜の木

    ヴァレンティーノ公園—名古屋市から寄贈された桜の木
    姉妹都市提携の折に、名古屋市からトリノへ桜の木が30本寄贈されました。桜の木の横には、この寄贈について記された銘板が設置されています。
  • ポルタ・スーザ駅

    ポルタ・スーザ駅
    きらめくガラスと鋼鉄製のポルタ・スーザ駅は旧駅舎から目と鼻の先にあります。高速鉄道のハブであるポルタ・スーザ駅は、イタリアの主要な2つの金融機関(トリノのインテーザ・サンパオロ銀行とミラノのウニクレディト銀行)を今やわずか30分の所要時間で連絡しており、官民連携による戦略的開発の好事例となっています。
  • パラティーナ門

    パラティーナ門
    1~2世紀に建てられたパラティーナ門は、ラテン語で「ユリア・アウグスタ・タウリノールム」という名の、街の起源となった前哨基地を我々に思い出させてくれる重要な遺跡です。パラティーナ門は、4つのアーチを備えたローマ帝国への北側の入り口で、この門をくぐって歩行者と荷車が行き交っていました。窓が2列並んだ煉瓦造りのファサードの左右には、高さ30m、横向きの大理石の帯で間を繫がれた16角柱の塔が2つ建っています。そして衛兵所の遺構近く、門の前には、カエサルとアウグストゥスの像のレプリカが建っています。
  • 古代ローマ地区

    古代ローマ地区
    パラティーナ門の近くにあるチェザーレ・アウグスト広場は、まるで古代ローマを写し取ったスナップ写真のようで、煉瓦造りの柱や、市当局が推進する地域再生プロジェクトにより作られた考古学公園の柵にその周囲を囲まれています。芝生やローマ時代のフリーゼ、古典美術館(トリノ王宮博物館の一部)まで続く古代ローマ執政官の道の区画という牧歌的な背景を、この広場が生み出しています。その時を超えた旅は、古代ローマの劇場(1世紀)の発掘に端を発しています。この遺跡は1899年に偶然発掘され、柵以外にも観覧席、階段、柱、オーケストラピットを特徴として備えていました。
  • メルツのイグルーの泉

    メルツのイグルーの泉
    イグルーの泉は2011年に芸術家マリオ・メルツにより作られました。同噴水は石造りで4点の基本方位を示すネオンライトが付いています。イグルーの泉は「スピーナ2」と名付けられた地区の都市整備計画の中心部にあり、トリノの街を南北に走る広い大通りの一部となっています。
  • 国立自動車博物館

    国立自動車博物館
    自動車博物館の「マウト」(MAUTO)はヨーロッパで最も重要な博物館の1つです。同博物館は1961年に開館しましたが、国立映画博物館を手掛けた才気あふれる建築家フランソワ・コンフィーノの手で現在は全面改装、増築されています。新しい博物館の映像や写真展示では、自動車設計・組立のこれまでの歩みと、自動車を20世紀の記憶に刻み込んだ全てのスポーツ・社会的イベントを振り返っています。来館者はその映像や写真展示に秘められた自動車やエンジンへの情熱を追体験することができます。トリノはイタリアでは自動車の街と考えられています。実際1899年には、その頭文字からフィアット(FIAT)として現在良く知られているトリノ自動車製造会社(Fabbrica Italiana Automobili Torino)が設立されました。フィアットの設立により、現代的で専門性が高く、統率のとれた労働力が必要となりましたが、それが街の将来的な労働力の基礎となって、トリノの企業家的構造が確立されました。
  • オリンピックスタジアム地区

    オリンピックスタジアム地区
    2006年トリノの主催で第20回オリンピック冬季競技大会が開催されました。オリンピック地区には、ガエ・アウレンティとアルナルド・デ・ベルナルディにより再設計されたスタジアム、磯崎新とピエル・パオロ・マッジョーラにより設計された屋内競技場「パラスポーツ・オリンピコ」、トニー・クラッグ設計の像「ポインツ・オブ・ビュー」(Points of View)があります。「ポインツ・オブ・ビュー」は各々の基底部を中心として3つの柱が立ち上がる銅像です。湾曲し折れ曲がりながら螺旋状に上へと伸びるこの像は、スケールの大きさを見るものに印象付けています。
  • 丘陵地区とスペルガ聖堂

    丘陵地区とスペルガ聖堂
    1706年、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ二世は、フランス軍に包囲されたトリノをスペルガの丘から視察した後、「勝利の暁には、ここに大きな聖堂を建立する」という誓いを立てました。そしてピエモンテの軍勢が勝利を収め、1717年には、後のスペルガ聖堂となる建物の工事を開始せよとの命令が下りました。この聖堂の建設はフィリッポ・ユヴァッラに委託され、トリノ及びピエモンテ全域の宗教芸術の全盛期の一端を示しています。
  • ストゥピニージ狩猟宮殿

    ストゥピニージ狩猟宮殿
    ストゥピニージ狩猟宮殿の工事は1729年に始まり、同世紀末まで竣工への時間を要しましたが、最も特筆すべきは最高峰の宮廷建築家であるフィリッポ・ユヴァッラがこの工事の指揮を執っていたという点です。15万m²の公園と農地に囲まれたこの美しい邸宅は、ヴェネツィアとウィーン、両画派の画家によって装飾されています。サヴォイア家のマリア・テレーザや後にフランス国王シャルル10世として戴冠するアルトワ伯フィリップの結婚式、またヴィットーリオ・エマヌエーレ二世とハプスブルグ家のマリーア・アデライデとの結婚式がこの宮殿で執り行われました。世界で最も洗練されたロココ様式の模範例であり、ユネスコ世界遺産に登録された王宮郡の礎でもあるこの宮殿には、現在、家具調度品博物館が入っています。
  • ヴェナリア宮殿

    ヴェナリア宮殿
    ヴェナリア宮殿は、カルロ・エマヌエーレ二世のための理想的な猟場として1660年に建設されましたが、この壮大なプロジェクトはアメデオ・ディ・カステッラモンテにより着手され、その後に当時最も有名な建築家であったガローヴェ、ユヴァッラ(ガレリア・グランデ、聖ウンベルト礼拝堂)とベネデット・アルフィエーリによって拡大されてきました。同プロジェクトは、現れては去っていく王族の趣味や希望に沿って、その時々の様式や流行に合うように、何年もの間手を加えられてきたのです。ヨーロッパで最大の保存プロジェクトであったと考えられる計画により修復されたヴェナリア宮殿(ヴェナリア・レアーレ)では、庭園を背景にして繰り広げられる暇つぶしの娯楽やロマンスで彩られた宮廷生活への理解を深めることができます。現在では庭園は二段式に模様替えされ、美しい遊歩道や噴水、大きな池がその美しさを引き立てています。これらの施設は、牧歌的な雰囲気と当時の活動を保存しているラ・マンドリア公園(どちらも共通入場券で入場可能)へと繋がっています。また、国際的に有名なゴルフコースも2つ備えています。
  • ビチェリン

    ビチェリン
    ビチェリンはトリノ生まれの伝統的ホットドリンクで、エスプレッソ、チョコレート・ドリンク、ミルクを小さなグラスに層状にして重ね入れた飲み物です。ビチェリン(bicerin)という言葉はピエモンテ方言で「小さなグラス」を意味し、イタリア語の「ビッキエリーノ」(bicchierino、グラスを意味するbicchiere+指小辞)に相当します。このコーヒー飲料は18世紀から存在しており、1852年アレクサンドル・デュマに称賛されました。ビチェリンは17世紀の飲み物「ババロワーズ」(Bavarèisa、バイエルンの、という意味)をベースにしていると考えられています。ババロワーズとの重要な相違点は、ビチェリンでは三種の飲料を混ぜるというよりもむしろ、グラスの中に層状にして丁寧に重ねるという点です。コンソラータ大聖堂の向かいにあるカフェ・アル・ビチェリンは、18世紀からビチェリンを提供し続けているコンソラータ広場の歴史あるカフェです。現地の言い伝えでは、ビチェリンはカフェ・アル・ビチェリンもしくはカフェ・フィオリオのいずれかで1704年頃に生み出されたとされています。
  • チョコレートの特産品

    チョコレートの特産品
    トリノのチョコレートの起源は1560年にまで遡ります。実際に同年は、シャンベリーからトリノへのサヴォイア公国の遷都を祝して、サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトがトリノ市民に一杯のホットチョコレートをふるまうことを決定した年です。それ以来、チョコレートは「イタリア製」の職人技による自慢の一品となり、チョコレート職人という職業が生まれました。初めてこの職についた職人がチョコレートの新しいレシピと形を発明し、領内にチョコレートの技術を広めました。伝統と革新を融合させながら、トリノのチョコレートの歴史は、チョコレートの創作における転機を迎えます。単純にチョコレートを固めることで、イタリアの伝統の1つのシンボルを生み出したのです。そして1865年、トリノの街を象徴するチョコレート「ジャンドゥイオット」が生まれました。鍵となる食材はピエモンテの特産であるランゲ地方のヘーゼルナッツで、それ故にジャンドゥイオットのオリジナルレシピは、今もピエモンテ州都にしかありません。またその頃に、イタリアの主要なチョコレート製造業者がトリノで創業しました。世界中に認知される素晴らしい「イタリア製」の自慢の一品は、伝統との繋がりをそのまま維持するだけの力を持ち、ヘーゼルナッツという素晴らしい食材を尊重することで生み出されました。トリノとピエモンテは今もイタリア最大のチョコレート製造の中心地と考えられています。トリノのチョコレートはジャンドゥイオットだけではありません。同地域はクレミーノという三層(ジャンドゥーヤ、チョコレート、ヘーゼルナッツ)のチョコレートや、ボエロというイタリアの有名なリキュール入りチョコレートも生み出しました。